郡山市消防団郡山中央地区隊第一分団


駅前部の歴史

郡山市消防の歩みと第一分団・駅前部の沿革
郡山の消防の創始は古く、旧藩時代(二本松藩・明治維新以前)から住民が自主的に「火の番」なるものを組織したことに始まっている。その後消防の組織的な活動の重要性から、
*明治十二年五月に村議会の決議により初めて組織的な消防体制が確立された。
内容は、 頭取(とうどり)
組頭(くみがしら)
水の手頭(みずのてがしら)
火消(ひけし)
水の手組(みずのてぐみ)
高張持(たかはりもち)
旗持(はたもち)
梯子持(はしごもち)
指股持(さすまたもち)
1名
2名
1名
50名
20名
2名
2名
4名
4名

以上86名で構成され、頭取、組頭は村議会議員の選挙で、戸長が任命した。
警備費は、各戸分限割(資産規模、営業規模等で割合を決める)で負担した。
*明治十三年三月「箱付き竜吐水」四挺を購入。(郡山消防署に展示されている)
  この年「消防組定員」を組頭以下百二十九名に改めた。服装は、幹部は
  洋服、消防夫は「法被(ハッピ)」。
*明治十四年 消防組を改組し、
   一番組(本一組、本二組、本三組、細組)
   二番組(西ノ組、中組、蔵場組、稲荷組、東組)
   三番組(大一組、大二組、大三組、大四組、北組)とし、
  各番組に頭取1名、各町内に副頭取2名、組頭1名、ポンプ係長1名を配
  置した。
  更に、消防夫は官公吏、学校教員、僧侶を除いた20歳以上、40歳以下
  の男子1名が各戸より参加した。服装は全員ハッピに改められた。
  この編成は、明治二十七年の勅令消防まで続いた。

     明治十四年七月二十二日の深夜一時頃(正確には7月23日未明)北町(現在
     駅前2丁目)角、煙草問屋裏の貸し座敷「鮓米(すしよね)」から出火した火の
     手は消防夫の不足もあり、たちまち近隣に燃え広がり、宿場町郡山の中心部、
     八十八戸を消失、明け方漸く鎮火した。 天保年中、如宝寺火事、十日町(稲
     荷町・清水台安積国造神社入口南側)角の山口屋火事、この両度の火事以来、
     三十余年来初めての大火なり。尤も、明治戦争大火(戊辰戦争の戦災)は、
     これ別ごとなり。(大槻友仙著「明治見聞実記」より)
     明治十四年八月十五日、「明治天皇北海道御巡幸」の途上、前日須賀川お泊り、
    今日、中町「川崎屋・宗像弥兵衛」にてご昼食、午後一時ご出発、横塚「松屋」
    ご休止、二本松お泊り。この日天皇陛下より北町大火のお見舞いを戴く。
     明治十四年十一月三日、「消防勢ぞろい」が実施される。(見聞実記)
    消防器、印半纏(ハッピ)、頭巾、旗、梯子、鳶口など東京に頼むなどして、皆
    出来あがり「勢揃い」を実施。毎年二度づつ勢揃いする定めとの由。
     この年ドイツ式「腕用ポンプ」一台購入。(当時の価格は五千余円なり)


*明治十九年、従来の警備費負担捻出制度(分限割=所得規模、資産規模による見
   たて割の寄付)を改め村議会で予算を計上することになった。
*明治二十二年(西暦1889年)郡山町制施行。人口八千三十一人、千五百四
  十八戸、町予算千七百円、警備費六十円七十五銭。
*明治二十七年・勅令第十五号「消防組規則の制定」公布、施行。
 従来の消防組を改編。全町八部制、組頭以下三百七名編成による「公設郡
 山消防組」が設置された。
  組織は、第八部を除き、各部小頭二名、消防手三十八名を配置。
     第八部のみ小頭二名、消防手二十五名。

消防施設は、 腕用ポンプ
纏    

水桶
梯子
手鳶
指股
提灯
火の見櫓
8台
1本
9本
80個
8丁
40本
4本
308個
6基
を備えた。

   

*大正四年・ガソリンポンプ2台を購入、第一部(現在の第一分団本町部)と、
 第六部に配置。

   

*大正十年・八部制を十部制、定員三百七十一名に改編。
   ガソリンポンプ三台を第四、第五、第七部に配置。
*大正十三年・小原田村と合併、郡山市制施行。
 人口・三万九千三人。市長・大森吉弥。
*大正十四年・小原田村合併により十二部制、定員三百九十七名と改編。
 六月桑野村の合併により、九部制、定員二百八十八名に改編。
*大正十五年(1926年)平井式グラハム・ページ自動車ポンプ一台を第二部に配置。
 (これが現在の第一分団・駅前部の最初であり
郡山初のポンプ自動車である。)

*昭和二年「ノーザン式」ダッジブラザー自動車ポンプ一台を第一部(現在の第
  一分団・本町部)に配置。
*昭和七年四月・「常備消防部」(現在の郡山市消防署)を新設。部長以下十二名が
   任命された。
 第一部のダッジブラザー自動車ポンプ一台、第二部のグラハム・ページ自
 動車ポンプ一台を常備消防部に配置換え。
*昭和七年六月・常備消防詰所、車庫新設。
*昭和七年十一月・常備消防部に望楼竣工。高さ二十一・六メートル。
*昭和八年(1933年)二月・常備消防部に火災専用電話架設。
 同年第一部に30年式ブロックウエー自動車ポンプ、
 第二部に27年式ダッジブラザー自動車ポンプを配置。
*昭和十二年十一月・常備消防部に37年式V8フォード自動車ポンプを配置。
*昭和十四年四月・「消防組」を「警防団」と改組。
  定員六十名、七ヶ分団、八部編成。自動車ポンプ八台、手引ガソリンポン
  プ三台、腕用ポンプ十二台を配置。
*昭和十四年(1939)四月一日、郡山警察署管内全部の「警防団」の結団式が
  麓山公園で盛大に挙行された。郡山市の警防団長は元の消防組頭今泉顕治
  を初代に終戦(1945)まで村井八郎(郡山市長)、今泉得三、津野喜七、
  鴫原弥作が当たった。
  警防団の組織は、郡山市警防団本部に、常備消防・警護・救護・防毒・配給
  ・交通整理・工作・庶務の九部を置いた。また市内を七ヶ分団に区分した。
  分団の任務は水防と警報部の二部制で総員600名だった。

分団は、 
第一分団=本町方部
第二分団=中町、駅前、大町
第三分団=咲田、西ノ内
第四分団=麓山、池ノ台
第五分団=横塚、方八町
第六分団=小原田
第七分団=開成山、菜根
分団長
佐藤傳兵衛
津野 喜七
根本 善蔵
山田 一郎
吉田小次郎
丹治 盛重
宮本 威司
副分団長
鴫原 弥作
遠藤 栄一
阿部 正之

大越 仁蔵

*昭和十九年(1944年)四月・太平洋戦争が激化、帝都防衛の為、第一分団、 
  第二分団の自動車ポンプ二台、第五分団、第六分団のガソリンポンプ二台
  を供出。
*同年五月・第一分団に安積郡豊田村より自動車ポンプ一台を借受けて配置。
*同年六月・常備消防部に「救急車」配置。
*同年七月・ビュィック乗用車を自動車ポンプに改造し、第二分団に配置。
  警視庁より警備派遣隊の要請あり、消防員十八名、補助員三十名(非常勤)
  自動車ポンプ四台(二台は使用不能)を旧第三詰所に配備。20年9月まで。
戦時下の消防・郡山空襲下の警防団の活躍
郡山市は昭和二十年(1945)四月十二日、七月二十九日、八月九、
十日の三回にわたり空襲を受けた。
 罹災戸数二千三百五十一戸、罹災人口一万二千八百五十三名、死者三百八名、
 罹災人口は20%を超した。
*四月十二日(木曜日)の空襲が最大であった。
 爆撃はB29の編隊によって十数回、反復的に1時間余続いた。
 この爆撃で保土ヶ谷化学工業郡山工場、東北新興アルミ工場、日東紡績富
 久山工場は大きな物的、人的損害を被り、浜津鉄工場、日本化学工場、
 東亜航空向上も被害を受けた。
 横塚、鶴ノ巣、方八町、兵庫田、晴門田地内は大きな火災を起こし爆死者
 が出た。郡山駅構内、駅前(燧田、北町)商店街でも火災が発生した。
*七月二十九日(日曜日)は、午前9時過ぎ、駅前付近に爆弾が投下された。
 空襲警報は発令されていなかった。爆弾の直撃を受けた付近の建物は全壊
 数棟、駅庁舎は半壊、待合室などで即死者がでた。
 線路が吹き飛ばされ、貨車も被害を受けた。

* 郡山市史第五巻近代(下)より抜粋「郡山空襲の記録」
   昭和二十年四月十二日 午前9時5分警戒警報あり、
   情報「関東東北より進入せる敵機は福島県南方洋上北進中なり」。
   二報「敵機は福島県東方洋上旋回中なり」
   三報「敵機は東方へ脱去せり」
   午前9時55分警戒警報解除せり。
   午前11時20分警戒警報発令。
   同11時25分空襲警報、同時に敵機北方より9機郡山上空に進入、爆弾数発
   保土ヶ谷工場へ投下せり。
    約5分後、東方より11機、13機、9機、13機、9機、13機、11機と7回に
    わたる、梯団式5分置き進入。富久山工場、アルミ工場、保土ヶ谷工場を爆撃、
    及び北町付近、方八町、横塚を爆撃焦土と化し、戸数約150戸以内。
    敵機延べ数百三十六機なり。
    郡山市への初空襲のため市民多数の被害あり。
    軍隊及び付近の警防団、須賀川、三春、本宮、福島より応援を受け、午後四時
    頃鎮火せり。郡山上空進入合計十三回なり。鉄道貨物ホームにも被害あり。
    記載者・小川知次(郡山自動車学校・故小川欽一氏(元郡山消防団団長)の厳父)
    昭和二十年七月二十九日・晴天気。
    午前八時三十分、警戒警報発令。
    B29機高度六千メートルにて福島県西北進し、反転して南進、郡山上空にて旋回
    九時三十分郡山駅へ爆弾投下、駅内破損し、死傷者多数なり。
    同十一時四十分、第三工場付近に爆弾投下したるも被害軽微なりしと・・
    同十時半警戒警報解除す。(記載者・鴫原専次郎)
    郡山中町第一隣組「警報当番日誌」から


*「郡山戦災史」抜粋・「第一、第二各分団の活動」
<第一分団>本町方部。分団員50名
 (消防部員20名、警護部員15名、警報救護部員女子15名)
△ 4月12日の空襲=豊田村から借り入れ中のポンプ車で延焼中の保土ヶ谷工
  場へ出動したが、途中東橋付近が通行不能の状態で後退。東橋下で延焼
  中の民家の消火活動に取り掛かったが、B29の再襲来で待避。
△ 7月29日の空襲=救護班を編成して郡山駅の死傷者の救護に当たる。
 重傷者は樺沢医院に運ぶ。
<第二分団>中町、北町、柳町、大町方部。団員50名(男子のみ)
△ 4月12日の空襲=駅前一帯が爆撃により火災。この消火に当たる。
 空襲の最後まで班長が交代で火の見櫓(現在の駅前部詰所)の上で警鐘を
 乱打し続けた。
△ 7月29日の空襲=爆撃を受けた郡山駅は火災にならなかったため、消火活
  動より死傷者の救護、搬出に当たった。
戦後の消防活動と背景
*昭和二十年十月供出の自動車ポンプ二台、ガソリンポンプ一台返還。
   第一分団、第二分団、第五分団へ配置。
*昭和二十一年(1946年)一月・第二分団のビュィック自動車ポンプを常備消
   防部に配置替え。1937年式ダッジブラザー自動車ポンプ配置。
*昭和二十二年十一月・「郡山市警防団」を「郡山市消防団」と改称。
   二部7個分団、定員三百名となる。
*昭和二十二年十二月二十二日・赤木町赤木新制中学校より出火、併設の赤木
      小学校に延焼し校舎全焼。損害額980万円。原因はストーブの不始末。
*昭和二十三年(1948年)六月二十四日・「柳内大火」
      富士館裏(現在の駅前二丁目富士館ビル)より出火、民家、店舗など109棟
       と映画館2棟全焼。特飲街を含む木造建物が密集した繁華街の火災、建物
       から吹き上がる火勢は、水利の不足もあって、消防ポンプの無力を見せ付
       けられる大火災。早暁になって、駐留米軍の指導協力により、ダイナマイ
       トによる破壊消防で鎮火。
       延焼中、火のついた木片が100メートル以上の範囲に飛散、竹箒などを持って
       屋根に登り、頬にまで伝わる熱気に、必死で火の粉を払い落とす近隣の人
       達、正に恐怖光景であった。
*昭和二十三年九月十九日・柳内「すずらん荘火災」
       六月の柳内大火の整理も未だ覚めやらずの出火に、近隣居住者の不安と恐
       怖は更に増大した。全焼12、半焼4棟、焼死者も出た。
       第二分団団員、山沢時次郎、鈴木章夫自宅店舗類焼す。 
第二分団日誌の記載始る
*昭和二十三年十月四日・「第二分団日誌」菅野晴一氏の記載が始まる。
  団長・舟橋義介、副団長・梅津春治、副団長・阿部正之。
  常備消防部長 玉木要八各氏を迎え、9月末で辞表提出の幹部。
  第二分団・分団長 高橋辰吉 分団幹部・班長 橋本嘉一郎 村上政之助
  木村 明氏等の後任問題で、第二分団全員協議会を開催。
  団本部推薦により、斉藤卯太郎(通称斉藤銀治)氏が新分団長と決る。
  副分団長 小川欽一、班長 鈴木源三、小針新次郎、副班長 菅野二郎
  大河原一雄、根来 博、笹沼幸次郎。
  会計 菅野二郎、宮島一男、庶務 菅野晴一の新幹部構成も決る。
*昭和二十四年二月二十一日・斉藤銀治分団長前年十一月辞任のため小川欽一
  副分団長が代行を務めたが、舟橋団長、常備消防部玉木要八部長、庶務部
  部長の推薦により新たに星清吉氏を新分団長として迎える事になった。
*昭和二十五年一月・常備消防部に「49年式いすず速消車」(タンク容量2200リ
  ットル)一台配置。
*昭和二十五年四月・消防組織法施行により郡山消防本部を設置、「常備消防部」を
     「郡山消防署」に改組。
    消防本部七名(消防長、次長、事務長、書記、主事、技術吏、雇い)
    消防署三十名(司令長、司令補三名、士長三名、消防士二十三名。
    自動車ポンプ三台。
*昭和二十五年十二月一日・第二分団のV8フォード自動車ポンプエンジン細部故障多く、
   昭和二十五年十一月市議会の承認を受け、V8フォードのエンジンシャシーをベー
   スに太田・江川製作所にて改造する件が決り、十二月搬送す。
*昭和二十六年二月・1937年式V8フォード自動車ポンプ(改造車)を第二分団に配置。

   
     同年二月十四日「新車配置披露会」を実施。
     改造期間中使用した、旧第二分団のポンプ車ダッジブラザー廃車

*昭和二十七年三月・第一分団に日産自動車ポンプ配置。
*昭和二十八年十二月二十四日・中町高松靴店全焼。(住家2棟店舗2棟)
第二分団団員高松輝夫自宅店舗。
*昭和三十年・日活映画「警察日記」森繁久弥、二木てるみ主演で、第二分団から
    郡山消防署に返還した1937年式ダッジブラザー自動車ポンプが起用され、
    北町の料亭「星輝」前から同、岩田耳鼻科医院前での撮影に使われた。

   
             日活映画 警察日記より

*昭和三十一年八月一日「駅前水神宮祭礼」
  北町町内会よりの依頼にて「駅前水神宮」祭典に放水鎮火祭を行う事とな
  り、午後一時出務。午後二時、駅前ロータリーに置いて第一、第二、第三、
  第四、第八分団と五色の放水を実施、美観なり。菅野晴一日誌より
*昭和三十二年十一月・第二分団へニッサン自動車ポンプ配置。

   

*昭和三十三年十二月・「消防庁舎」落成。建築工事費七百九十四萬円。
*昭和四十年五月・郡山市、安積町、日和田町、熱海町、田村街、富久山町、片平村、
          喜久田村、三穂田村、逢瀬村、湖南村が合併し、新郡山市が誕生
          十一消防団、九十九分団、団員数三千二百八十八名となる。
*同年八月・中田村、西田村が編入合併し、十三消防団、百十一分団、団員数
       三千八百八十八名となる。
*昭和四十一年三月十五日・来年郡山市において、県下消防団長大会が開催さ
  れるが、年々盛大な行事を盛り込み、諸経費も嵩むので、分団の運営資金
  造成をも含んで「都はるみショー」の前売券の売捌きを行う事になった。
  前売券は、指定席券が五百円、一般席券が三百五十円(当日四百円)
  会  場  郡山市民会館。主  催 郡山市消防団
  日  時  昭和41年4月14日・正午、午後3時、6時の三回公演。
  三月十六日から、団員を四班に分け四月十三日まで、連日売りさばきに近
  隣町内を回る。(4月6日午後10時頃今泉女子専門学校全焼火災)
*昭和四十一年四月十四日・「都はるみショー」
   当分団より、菅野二郎、菅野晴一、関文二郎、池田克巳、横井嵩、小針勉、
大野義平、内藤昭二、鈴木利治、橋本勝明、横井淳一、藤根英男等十三名
が会場整備と警戒に当たった。
   正午と三時は比較的空いていたが、六時には入場者多く、指定席が足りなく
なって混乱した。
   約1ヶ月間、連日の前売り券頒布活動と早朝からの出務で結構疲れた
いつの時代か不明だが、ザ・ピーナッツがデビューした時代だそうだ。(私にはモスラや沢田研二しか浮かばない。)現在のように当時は消防協力会がなかった為、消防団の維持費用は興行によって維持されていた。

*昭和四十一年九月二十五日・台風26号による強風と集中豪雨の為、
午前5時に団員を召集、警戒のため巡回。午前8時すぎて河川が増水。
逢瀬川畔、幣道内地区の福島交通ターミナルと近隣住宅に浸水、午前10時、
本部の司令により排水に出動。
  土嚢を積み排水に努めたが中々減水せず、三、四分団に救援交替を求めて
午後二時半詰所に戻り昼食。
*九月二十五日・夜八時五十五分ころ、幣道内大重川堤で増水警戒中の三分団員の乗った
   軽乗用車が、前方に大型トラックがいたので、避けようとして右に寄り過ぎたかさ5メート
  の急斜面を川に落ちた。後部の二人はガラスを破って逃れ、運転していた官  野哲男(38)
  さんは水死、助手席の阿部敏男(41)さんは外に出たが、普段の三倍もの水量の増水で濁流
  に飲まれ行方不明となった。この為タムラ郡山消防署長の指揮のもと、地元消防団総出動で
  遺体捜索が行われた。二十六日午後5時、一応第2分団は任を解いて貰い、30日までに
  上がらなければ、最後まで捜索に従事することになった。
*九月二十八日・午前十一時頃、磐越東線鉄橋下で阿部さんの遺体が発見された。
 消防団員の任務遂行中の殉職は明治二十二年以来の事である由。
*昭和四十二年五月・郡山市消防団を再編し、一市、一団、四十六分団、三千六百八十
           六名となる。名称も変更あり、第二分団は駅前分団となる。
      新郡山誕生に伴う十三消防団の綜合整備のため、消防団結団式を挙行。
*昭和四十三年六月二十五日「第一回郡山地区隊ポンプ操法大会」
     記録(池田克巳)午前八時前に詰所集合。黒ズボン、腹掛け、ハッピに着
      替え、分団長訓示を受け、定刻八時半に会場(麓山NHK会館前広場)到着。
      九時より開始。@開会の言葉・小田耕作副地区隊長。
             A国旗掲揚
             B統監訓示・小川欽一地区隊長。
             C来賓祝辞・星清吉団長
             D審査長注意・郡山消防署・武田署長。
             E選手宣誓・本町分団佐藤副班長
      以上を以って麓山分団を先頭に日頃、猛訓練をした精華(?)を発揮する
      熱戦の幕が切って落され、麓山、咲田、本町、方八町、富田、大槻、開成、
      舞木、小原田の順で、当分団は第十番目に実施。日頃の面影など吹き飛ば
      す操法を展開した。最後に蒲倉分団で幕を閉じた。
      審査会議を経て、武田審査長による講評並びに成績発表があり、方蜂町分
      団、本町分団、小原田、が一、二、三位、当分団は、熱戦むなしく、幸か
      不幸か?第四位を占めた。横井嵩地区隊警防部長の閉会のことばで終了。
      本日のメンバー
@指揮   池田克巳(池田屋旅館)  A一番員  大野義平(一柳精肉店)
B二番員  宇井弘明(幸寿し)    C三番員  小島康一(とんかつ葉山)
D四番員  横井淳一(洋品すみれ)  E五番員  内藤昭二(吉川屋商店)
F六番員  佐藤栄一(佐藤書店)
*昭和四十三年八月六日「郡山うねめ踊り流し参加」(分団日誌・池田克巳)
     午後6時半詰署集合。 ドンブリ、パッチ、半纏着用し、角海老脇旧国道に
     並び、7時の花火の合図で「郡山消防まとい会」を先頭に三十四団体約二千人
     が踊りまくった。今日午後三時頃、突然の雷雨の為、赤提灯がすっかり色を流
     され、提灯の紙は剥がれ散々な状態であったが、踊り流しの熱気で、すぐ忘れ
     るようになるほどだった。
     参加者・菅野晴一分団長、保刈清班長、大野義平、内藤昭二、佐藤栄一、
         横井淳一、和泉健一、藤根英男、小島康一、渡辺明、宇井弘明。11名


*昭和四十三年八月二十八日「消防協力会会費募金」について代議員打合会議
  代議員は諏佐公平氏(さつき)、佐藤勝利(山本家)鈴木初吉(鈴芳旅館)
  根来 博(根来輪業)、佐藤金悟(女鳥羽そば)、村上彦一(蓬莱館)の六氏。
  目標額70万円。(九月四日から年末まで加入要請を各班に分けて実施された。)
*昭和四十四年一月五日・明日の出初式準備、ポンプ磨きチェーン装着。
*昭和四十四年二月五日「磐梯観光ホテル大火災」吹雪極寒

  出務者 菅野分団長、池田克巳、保刈清、小針勉、佐藤栄一、田丸幸助、橋本勝明、
      和泉健一、小島康一、渡辺隆弘、石井一正、玉木明夫。
      星清吉団長、菅野二郎本部庶務部長、横井嵩地区隊警防部長同乗。
[原因状況]五日八時五十分出火、通報は午後九時十五分ころ、熱海町高玉、磐光パラ
  ダイス・磐梯国際観光叶崎善之助社長(28)から出火。最大風速25メートルの猛吹
  雪にあふられ隣接の磐光ホテル本館、新館合せて約一万五千五百uを全焼した。
  出火と共に、消防署から消防車輛八台はじめ各地区からポンプ四十二台が駆けつけ、
  必至の消火に当たったが、火勢が強く全焼するまで手の施し様がなく、午前三時頃、
  やっと鎮火した。
 当分団は、十一本ホース使用、放水したが、物凄い寒気に「刺子(さしこ)」も手足も
 凍えきって、道路はツルツル、転倒する者続出し、作業不能になったので、十二時こ
 ろ、帰団。詰所で夜食を摂り、暖にありついたが、全く寒い火災であった。
 この火災で、従業員、宿泊客、見物客など三十一人の死者と三十一人の負傷者を出し、
 旅館の火災としての死亡者数は、戦後史上最高となった。
 原因は、金粉ショーに使ったベンジンが、ストーブに引火、カーテンや幕に燃え移り、
 鉄筋コンクリート建ての為、火は内部を余さず嘗め尽くし、避難誘導の不手際や新建
 材の有毒ガスなどの発生が重なり、この大惨事となったもの。
 損害は、建物、設備、絵画などだけで約三十億円との事。
 「花の湯」(大町)にて入浴、二八よりラーメンを取る。「とん喜」よりカツ丼。
 二時解散。
 六日午後一時集合、馬場医院前のロータリーでホース洗い。降雪のため乾燥できず。
 十二日・ホース乾燥。十一本。内ホース一本バス、二本不明。現有十七本。
W氏談「この日は、夕方から寒さが特に厳しくなっていた、現場で放水中に水を被った
  刺子は凍り付きトタン板のようになり動作もままならず、転んでばかり、ホースも
  凍りつき、後続の消防団にタッチ出来たときは体力的にも限界だった。詰所に戻り、
  凍りついた刺子を脱ぐのも一苦労、花の湯に行ったら、大事な息子?は(あまりの
  寒さで)縮みあがって行方不明になっていた。」
 K氏談「地吹雪がすごく、道路は凍りつきピカピカに光っており、チェーンを巻いてい
  ても滑る、滑る。ポンプの後部座席はオープンだが定員以上乗ってので責任は重い。
  「神様・・神様・・神様」と祈る気持ちで懸命に運転した」
この火災は防火管理の責任を問う裁判事件になり、「磐光火災」として注目された。
その前年神戸市有馬温泉「池坊満月城」火災の焼死者三十名を超し戦後最大の惨事となった。

*昭和四十四年七月一日[第二回地区隊ポンプ操法競技会]
当分団は大槻に続いて7番目に競技を行い、猛訓練の甲斐あって上位入賞を成し
遂げ、分団長以下、感無量であった。得点は次の通り
第一位  本町分団   187.35
第二位  大槻分団   172.65
第三位  駅前分団   172.55   大槻との差、僅か0.1(グヤジイー・・)
第五位  蒲倉分団   167.15
第六位  小原田分団  165.75
第七位  咲田分団   157.01
第八位  麓山分団   136.85
第九位  開成分団   136.55
*昭和四十五年四月二日・新分団結成式(郡山市公会堂日本間・副班長以上80名出席)
   分団統合により本町分団、駅前分団、咲田分団、麓山分団の四分団は一本になり、
   各分団の名称はそれぞれ本町部、駅前部、咲田部、麓山部となる。
   新分団名称は、郡山中央分団
    新分団長兼郡山地区隊副隊長  小田 耕作

副分団長
庶務部長
本町部長
駅前部長
咲田部長
麓山部長
保留
伊藤重雄
古川武春
菅野晴一
阿部清和
知武四郎

*昭和四十六年四月一日・団員定数三千六百四十一名となる。
   中央分団新組織発令さる。
分団長 
副分団長
庶務部長
本町部長
駅前部長
咲田部長
麓山部長
古川 武春(階級分団長)新任
菅野 晴一(階級分団長)新任
伊藤 重雄(階級副分団長)留任
牧野 栄一(階級・部長)新任
池田 克巳(階級・部長)新任
酒井  洋(階級・部長)新任
和知武四郎(階級・分団長)留任

*昭和四十六年二月十二日・「駅前部新車披露宴」郡山商工会議所大ホール
   

*昭和四十七年三月三日「郡山市消防団々歌」発表会(市民会館)
  伊藤久男、三鷹淳、コロムビアローズ他女2男1の歌手により、
  青空うれし、たのしの司会により開演。(一般前売り600円)

*昭和四十七年十月二十三日
「婦人消防協力会結成総会」(市役所正庁)
*昭和四十八年四月・消防本部が、一市七町一村による「広域消防組合」となったた
       め「非常備消防」の事務が郡山市総務部庶務課の主管となる。
 同年七月・郡山市役所の機構改革により総務部に「消防防災課」が設置され、
      「非常備消防」の主管課となる。
*昭和四十八年七月十六日「郡山地区隊第6回ポンプ操法競技会」
   指 揮 大野 義平  一番員 宇井 弘明  二番員 平田 周二
   三番員 和泉 健一  四番員 秡川 博雅 五番員 玉木 明夫 
     六番員 小島 康一 第5位。指揮の大野君が個人優秀選手となった。
   タイムの遅いのが当部の弱点である。
*昭和四十八年十二月四日「秋季検閲慰労会」団本部庶務部長菅野二郎氏長男功一君の
  入団歓迎と保刈班長の快気祝を兼ねて行う。
*昭和四十九年一月六日「出初式」雪降りと寒さに中庭の予定が消防署三階に集合。
鈴木不二彦氏の司会で小田地区隊長開会の辞、星団長による天皇陛下のおことば、
秀瀬日吉市長訓示、小川地区隊長式辞、来賓渡辺秋蔵市議会議長、粟山ひで衆議院
警察署長等の祝辞、防火標語入選者表彰、祝電、万歳三唱、横井嵩警防部長の閉会の
辞で解散。パレードも分裂行進もなく威勢の良くない出初式であった。(池田記録)
*昭和四十九年二月二十二日「本町部新ポンプ車(ディーゼル車)配置記念披露祝賀会」
*昭和五十五年六月二十八日・郡山地区隊ポンプ操法大会(金屋ビクタースポーツ広場)
  駅前部出場。
指 揮
一番員
二番員
三番員
四番員
補 欠
白浜 勝美
江川 英男
野田 雅文
阿部伸一郎
菅野 功一
横井 淳一
横山 弘一


優勝は舞木分団908点、2位開成分団、駅前部得点878点。大槻879点一点差で四位となった。
*昭和五十六年四月・郡山市消防団団員定数を三千三百五十名に改める。
  郡山地区隊・中央分団【本町部(第一分団)・駅前部(第二分団)の併合】。
  併合により役職の改正があり、役職名称は全員降格となった。
  分団長=分団部長。副分団長=班長。班長=副班長。副班長は団員。
* 戦後、警防団から消防団となった以降の歴代分団長及び旧組織における分団
  長格の推移は次の通り。

初代
二代
三代
四代
五代
六代
七代
八代
九代
十代
十一代
十二代
十三代
橋本 辰吉
斉藤 銀治
星  清吉
鈴木 源三
小川 欽一
菅野 二郎
菅野 晴一
池田 克巳
大野 義平
佐藤 栄一
横井 淳一
藤根 英男
菅野 功一
警防団第二部長・消防団第二分団長
第二分団長
第二分団分団長、郡山消防団本部・団長
第二分団長
第二分団長、郡山地区隊地区隊長・郡山消防団・団長
第二分団長、団本部庶務部長
第二分団長、S52中央分団長、郡山中央地区隊長
昭和47年郡山中央分団・駅前部々長、中央分団庶務部長
昭和52年・郡山中央分団・駅前部々長
S59駅前部々長、第一分団分団長、中央地区隊警防部長
駅前部々長、H5第一分団分団長、中央地区隊・庶務部長
第一分団・分団部長、平成七年度第一分団分団長
第一分団駅前部々長

*昭和六十一年八月五日・「8.5水害」
  前日から降り続いた集中豪雨(雨量206ミリ)は翌日五日朝には晴れ上がって
  いた。
  午前8時51分に谷田川大橋下流の堤防が決壊、逢瀬町、片平町の床下浸水、
  田畑の冠水が始り、午後3時23分逢瀬川の堤防が決壊、多量の濁流が卸
  売市場方面に流れ込み、床上浸水となり付近の住宅も孤立する所が多発し
  た。金屋の工業地帯を始め商店、一般住宅にも被害が出て、被害総額は四
  百億円を超した。(郡山消防団史より)
*昭和六十三年四月・郡山消防団活性化対策として、懸案だった「郡山地区隊」
  を「郡山中央地区隊」 第一分団 第二分団 小原田分団 開成分団
   「郡山東地区隊」 方八町分団  蒲倉分団   舞木分団
   「郡山西地区隊」 富田分団   大槻東分団  大槻西分団    
  に分割し、郡山市消防団は十五地区隊となる。
*平成十年八月二十六日〜三十日「平成十年八月末豪雨災害出動」
二十六日から降り始めた豪雨に、夕方から幹部、団員、詰所待機。
二十七日午前11時、市防災課から出動司令を受け、詰所に団員を召集したが、まもなく
小原田中学校北地内の溢水処理の司令あり出動。近隣アパートの地下駐車場のポンプ自
動車二台により準備していた土嚢を積み浸水を押さえ、排水作業を開始したが、降雨中
でもあり増水甚だしく、隣接住宅の玄関先まで浸水し、作業中のポンプ自動車もタイヤ
が半分ほど水没した為、排水作業不能の件、防災課に報告し撤収、帰団。
「大重橋付近の歩道で溢水、現場に行き交通規制に回って欲しい」との連絡あり、大重
橋西側の配水管が逆流してマンホールを吹き飛ばし、歩道敷石も崩れていたがまもなく
減水を始め収まったが、大重橋東側に移動巡回中、川岸下水管マンホールの蓋が飛び汚
水が1.5mほど吹き上がったので早速、ガード下への交通規制を始めたが、制止を無視し
た軽トラックが水位40cmでエンスト、団員数名で汚水増水中を救助に向かい、車を安
全な場所へ移動したが、運転者は礼も言わずに立ち去る。
詰所に戻り、汚水を被った作業服、シャツ、パンツまで悪臭が強く、若手団員にコイン
ランドリーで全員の分洗濯してもらう。ホッカ、ホカの作業服を着替えて、指示のあっ
た阿久津橋方面を巡回し、帰団、夜食をとり詰所待機。
防災課より「スケートセンター北に浸水、応援して欲しい」と指示があり急行。、小原田、
開成分団、第一分団駅前、本町部が雨は降り止まずのなかで排水作業を続ける。
二十八日明け方5時になって漸く交替を待って帰団。団員全員疲労困憊。
一旦団員を帰宅させたが午後になって「阿久津橋周辺の堤防警戒に出動して欲しい」と
の指示により出動、大重川と阿武隈川の合流点に当たり、昭和61年8月5日の「8.5水
害」時に決壊した堤防下北側の卸団地敷地周辺の浸水地点から気泡が噴出し、
堤防決壊の恐れありとの県河川課の判断で、消防団員約二百人以上で土嚢積み作業を行う。
二十九日
三十日
*平成十年十月郡山消防団郡山中央地区隊第一分団駅前部
      パソコン購入
*平成十一年四月(1999年)郡山市消防署・消防会館新築落成。
*平成十一年六月一日郡山消防団郡山中央地区隊第一分団駅前部
      ホームページ開設。
平成12年1月10日
文責・藤根英男 2002/12/24 他界

以下より火災水害などの記録は「出動報告」にて記載
2003年 4月 菅野功一 第一分団分団長就任
2003年 4月 江川英男 駅前部部長就任
2003年 4月 駅前部名称変更(消防団スリム化計画の一環)
         旧 郡山市消防団郡山中央地区隊第一分団駅前部
         新 郡山市消防団郡山中央地区隊中央第一分団第二班
         駅前部では、通称 駅前部 とする(部内決定事項)
2004年7月18日 第40回福島県消防協力会郡山支部消防操法競技大会
             ポンプ車の部 優  勝
駅前部選手紹介
操作員 氏     名 年 齢
指揮者 阿部 伸一朗 46
一番員 秡川 貴裕 24
二番員 大戸 裕剛 35
三番員 本田 英太郎 23
四番員 中村 和也 40
補欠 本田 英二 49
教官の根本氏に「漫才操法」と命名され優勝候補と噂されていた西田町を押さえてのまさかの優勝。
優秀操作員0名(西田町は3名)チームワークと漫才操法と練習では出なかった最高タイムで優勝を勝ち取った。
消防署内での駅前部予想順位は最高で5位だった。
※成績は発表されない為、記録なし。


練習風景とその記録


2004年8月22日
 第34回福島県消防操法競技大会
             ポンプ車の部 6 位
             大会会場:あづま総合運動公園
駅前部選手紹介
操作員 氏     名 年 齢
指揮者 阿部 伸一朗 46
一番員 秡川 貴裕 24
二番員 大戸 裕剛 35
三番員 本田 英太郎 23
四番員 中村 和也 40
補充員 内藤 剛 31
※内藤 剛さんは小原田分団久留米班所属、特別駅前部員として競技に出場した。
ポンプ車操法の部 成績表
出場チーム名 総得点 タイム合計 順位
富岡町 186.5 111.83 1
玉川町 186 113.29 2
田島町 185.5 117.10 3
新地町 185 114.96 4
船引町 184.5 115.04 5
郡山市
(駅前部)
183.5 113.45 6
白河市 183 111.87 7
いわき市 180 113.96 8
塙町 179.5 114.94 9
塩川町 178.5 112.03 10
会津高田町 176.5 117.95 11
東和町 176 116.63 12
長沼町 175.5 119.83 13
会津若松市 170 125.32 14
福島市 169 117.40 15
1位との点差3点 タイム差 1.62秒 
本年はポンプ車の部が全国大会の権利がありハイレベルな戦いでした。
練習では出なかった最高タイムで見事6位。
2004年11月5日  江川英男 駅前部部長 他界
午前、駅前部員同報メールにて操法大会全国大会の放映スケジュールを流してから数分後に急死した。
告別式当日、消防署員約120名が署前にて見送りをしてくださりました。
操法大会を始め大きな功績を残した。
2005年 4月 本田英二 駅前部部長就任
2007年 4月 菅野功一 郡山中央地区隊訓練部長就任
2007年 4月 本田英二 中央第一分団分団長就任
2007年 4月 阿部憲生 中央第一分団副分団長就任
2007年 4月 阿部伸一朗 駅前部部長就任
2008年 3月 本田英二 中央第一分団分団長退団
2008年 4月 阿部憲生 中央第一分団庶務部長就任
2008年 4月 阿部伸一朗 中央第一分団分団長就任
2008年 4月 中村和也 駅前部部長就任
2009年 2月 第13回防災まちづくり大賞
         防災情報部門 消防科学総合センター理事長賞 受賞

         主催 総務省消防庁/消防科学総合センター/日本防火・危機管理協議会
         表彰式 2月9日 虎ノ門パストラルホテル
         中村和也 大戸裕剛 本田英太郎の3名出席
         
2009年 3月 阿部伸一朗 中央第一分団分団長退団
2009年 4月 菅野功一 郡山中央地区隊交通部長就任
2010年 3月 阿部憲生 中央第一分団庶務部長退団
2010年 4月 中村和也 中央第一分団庶務部長就任
2010年 4月 大戸裕剛 駅前部部長就任
2010年 7月23日 消防団の充実強化についての検討会(第2回) 出席
         総務省消防庁の依頼により駅前部の活動を発表する。
         会場:スワール麹町3階 「錦の間」
         出席者:中村和也 大戸裕剛 本田英太郎

          

       消防団の充実強化についての検討会報告書全文

2011年 3月11日 14時46分 東日本大地震
2011年 3月            福島原発事故 原発震災

2011年 4月 菅野功一 郡山中央地区隊副地区隊長就任
2011年 4月 大戸裕剛 中央第一分団分団長就任
2011年 4月 本田英太郎 第一分団第二班(駅前部)班長就任
2012年 6月24日 第44回福島県消防協力会郡山支部消防操法競技大会
             ポンプ車の部 第3位

駅前部選手紹介
操作員 氏     名 年 齢
指揮者 佐藤 晃正 50
一番員 野田 暁 30
二番員 田畑 智 31
三番員 池浦 仁久 46
四番員 宗像 健雄 32
補充員 鈴木 建永 47

2013年 4月 菅野功一 郡山中央地区隊地区隊長就任
2013年 11月8日 新車配置 
            平成2年より使用していた日本機械工業のCD1から
            モリタ工業CD1が配置された。